京橋ものがたり

「京橋川を渡って御輿入れ」

故・諏訪 きよさん / 聞き手 波多 芳江

大正5年6月7日、諏訪きよさんは六代続く銀座七丁目にあった米屋の長女として誕生されました。生粋の銀座生まれの銀座育ちであるきよさんは、昭和十六年、京橋で四代続いた玩具屋の岩上家のおばあ様のご紹介で、京橋三丁目の宝石商「諏訪商店」に嫁がれました。御輿入れ時に頼んだトラックが間に合わず、急遽銀座から荷車三台で京橋川に掛かる京橋を渡られたそうです。祝言の鶴の絵柄の内掛けが74年経った今でも、きよさんのお部屋の鏡台掛けとして美しく掛けられています。当時、まだ婚約指輪や結婚指輪を贈られる習慣がない頃に1キャラットのダイヤモンドの指輪をいただいたそうで、その後、そのダイヤモンドは嫁ぎ先のおじい様が持っていらしたダイヤモンドと、お商売で使用していた比べ石(マスターストーン)と合わせて三石が連なるペンダントに作り直され、今も大事にされておられるそうです。

それでは、きよさんの記憶を辿りながら京橋のお話をお伺いしましょう。

戦時中の一番の想い出をお聞かせ下さい。

空襲に備えて少しでも延焼を防ぐために家を間引きして取り壊し、更地にする「間引き疎開」が京橋の家も対象になったために疎開をしました。その疎開先の一宮で、井戸水から腸チフスになって、亡くなった人も何人かいる中で私は症状が軽い方だったのが幸いしました。

現在諏訪家のお住まいは文京区の春日にあり、そのお庭には京橋三丁目のお稲荷さんが大事に祀られていますが?

お稲荷さん

何故なら関東大震災後、町会でお稲荷さんを管理する人がいなくなったので、店の隣りに地代を払って、うちで祀っていたんですよ。でもそこにビルが建て替えられることになり、水屋と共に春日の住まいへ移したのがその理由です。

京橋の街を想い出していただけますか?

京橋には小松さんの乾物屋が角にあって、第百生命の建物には床屋さんが入っていたわ。後に銀座へ移られた塚本ビルもあったわね。伊東靴屋、甘味処のあずまさん、パイロットの隣にはトンカツ屋、亀甲煎餅の亀井堂、写真屋、うなぎ屋の川京、鶏屋の安達屋、藪そば、二丁目には桃六さんがあり、泰明小学校の同級生だったクリーニング屋の福地さんの娘さんが桃六さんにお嫁にいかれたのよ。私の泰明小学校時代の一番の友人、武藤さんは俳優の石坂浩二さんのお母様なの。京橋の明治屋と銀座の松屋は進駐軍の店になっていて、誰でも入れなかった時代に知り合いがいたので、よく長男が連れて行ってもらうのを楽しみにしていたわね。

京橋川の記憶は何かありますか?

京橋川の記憶?ボート乗り場は女子だからあまり行かなかったわね。上げ潮引き潮で水面の上がり下がりがあったのは覚えているけれど、京橋川は汚かったもの(笑)。きれいな水が流れるのなら川があると涼しいからいいわねぇ。京橋川は土橋まで続いていて、今の銀座博品館のあたりに水上生活者の手こぎの和船が停泊していたのを覚えていますよ。

日頃の健康法を教えていただけますか?

お風呂は毎日、睡眠は6時間、お昼寝少々、一日三食をキチンと食べてますよ。今でも雨戸の開け閉めは自分でしていますし、家の中では杖は使わずに歩きます。週一で銀座の髪結いさんに通うのも身だしなみのひとつね。それから時々娘たちが温泉に連れて行ってくれるのよ。

ご趣味は何でしょう?

パッチワーク

針仕事は好きよ。着なくなった自分の着物をほどいてパッチワークにして小物を作っては孫にあげたり、バザーに出したりして喜ばれていますよ。歌舞伎は好きですけど、今は特に贔特はいないわね。今の猿之助は亀次郎時代から何を演じても上手だったわね。

きよさんにお会いして

諏訪 きよさん

一男三女の4人の子供、11人の孫、そして今現在17人のひ孫にも恵まれてお幸せに過ごされているご様子がきよさんの笑顔から伝わってきます。御主人になられた諏訪喜久男さんの第一印象は「素敵な人」とさらりとおっしゃられた。その御主人もすでに20年前に亡くなられ、嫁がれた「諏訪商店」は、諏訪貿易株式会社と名称を変えて創業107年になりました。今は住まいも会社も京橋を離れましたが、嫁ぎ先のお父様が元・三丁目町会長でいらしたそうで、現在ご長男の諏訪恭一さんが三丁目町会の副町会長をしていらっしゃいます。きよさんの記憶力に驚かされつつ、御年99歳にして、その凛とした佇まいとチャーミングで小気味良い会話に江戸っ子の粋を感じました。そして、日本のご婦人のあるべき正しい姿を垣間見たような気もいたしました。きよさんには、これからも変わりゆく京橋の姿を見ていていただけるように、まだまだお元気でいらしていただきたいと思います。長時間に渡るインタビューにもお疲れを見せず、ご協力いただきまして大変有難うございました。