京橋ものがたり

「京橋の想い出あれこれ」

中島金属箔粉工業株式会社 会長 中島 武

私は京橋(宝町)生まれの京橋育ちでして、昔の宝町二丁目当時兼松が建っていたところで昭和三年に生まれました。

奇しくも私の生まれた昭和三年に昭和通りが出来ました。関東大震災後の復興事業として、国家百年の計の中に昭和通りの建設が入っていたからです。うちは昭和通りの真ん中にありましたから、少し移動を余儀なくされました。ぬ利彦さんもそうでしたね。

小学校は京橋昭和小学校(現在の城東小学校)に入学し、よく京橋川で遊んだ想い出がありますよ。京橋川には東京湾の方から砂利を船で運んで来て降ろす砂置き場があって、水辺まで行けたので親に見つからずに泳いでは後で怒られたりしました。

昔の京橋川は輸送手段としての運河だったため鉄材を運ぶ船も入って来ていたので、周りには鉄鋼屋さんがいっぱいあったのを覚えていますよ。京橋川は運河ではありましたが、十分な深さがあったのでしょう。

昭和十年、七歳の頃から小学校を卒業するまで遊んだ懐かしい想い出でにボート遊びがあります。京橋川の橋のたもとにボート屋がありました。今の大根河岸公園の先に、下に降りて行く階段があって、そこから友達と一緒にボートを漕いで隅田川まで行っていたもんですよ。同級生にはお豆腐屋さんだった稲垣さん、日枝神社の代表をされ京橋三丁目の町会長もされた大澤ローヤルの大澤政次郎さんも同級生で、一学年後輩には現在の連合町会長の布施さんがいましたよ。

その頃に草野球の少年野球団が作られましてね、他に娯楽がなかったせいか、日曜日毎に月島の野っ原で地域別のチーム対抗をしました。子供たちだけだったので私は監督兼マネージャーを任されたりして。田中研磨工業所の田中貞行さんの弟・田中太一さんは二学年後輩でしたが、同じチームにいました。トンカツ屋の木邑さんと布施さんもメンバーだった。布施さんは今でも私のことを中島さんではなく、たけしさん、たけしさんとその頃のように呼んでくれているので恥ずかしい時もままありますよ。

昭和十二年の小学校三年生の時に現在の場所に移ったんですが、その頃は職住一緒で、近所にはトルコ人の洋服屋、その隣りにはハンコ屋がありました。うちから一軒先の角に福島さんのお米屋「武蔵屋」があって、みんな商売をしながら暮らしていましたね。

宝町は、宝町になる以前の町名は印旛町(いなばちょう)と呼ばれていたそうで、命名は、ぬ利彦さんの今の中澤社長の三代前の人が付けたと伺っていますよ。昭和五十三年に住所表示の実施により宝町から京橋へ変更されて、宝町は公式にはない町になってしまいましたが、町会としては残っていて地下鉄の駅名にもなっています。

看板

昭和二十年五月二十五日に東京大空襲で焼夷弾を落とされ、歌舞伎座は焼失、皇居の一部と日枝神社も一部焼けました。うちも三つの焼夷弾が落ちて、消すことは出来ましたが、ガラスが熱で焼けて窓から炎が真横になって入ってきたため、家は全焼してしまった。木造が多かった宝町一帯も焼けてしまいました。その時、仕事で使っていたアルミニウムのインゴットの板が全部溶けて昭和通りまで流れ出たんです。アルミニウムの融解率は六百度なので、少なくともその位の温度にはなっていたと思います。焼け出されて三、四日は余熱で家には近寄れませんでしたね。だいぶ後になって外に吊るしてあった看板が一部焼け焦げましたが空襲に遭っても焼け残っていたことがわかりました。外にあったので助かったのでしょう。家の中の方が熱かったことがわかりますね。家族と従業員が全員無事だったことが幸いでした。私が「全員無事!」と、張り紙を出したんですよ。

今では亡くなった人も京橋(宝町)を離れた人も多く、終戦当時の話を一緒に語れる人が少なくなってしまいましたね。